2019年3月12日火曜日

東日本大震災の記憶



なんとなく記事を書く気になれず



ブログ始めた当初は、勢いに乗ってバーッと書いていましたが、その衝撃力は継続できず数か月開けてしまいました。

ローラーを含めると、自転車にはぼちぼち乗っていたし、お仕事も家庭も特には問題なし。

習慣から外れると、プツリと切れてしまうものですね。

 

今回また記事を書こうと思ったのは、8年前の東日本大震災を思い出したためです。

2011年3月11日のワタシ


その当時は会社勤めではなく、自衛官をしておりまして、練馬区にある駐屯地の部隊で勤務していました。

その日は金曜日、お昼も過ぎたし週末の過ごし方をどうしようかな?なんて考えながら勤務していました。

確か週末は彼女(若かりし頃の嫁)とディズニーシーを計画していたと記憶しています。

 

1446分、駐屯地がものすごく揺れる。

 

私は机で仕事をしていたので、


 ①ドアを開放すること

 ②すぐに机の下にもぐること



を指示し、揺れが収まった時点で勤務していた隊舎前に所属員を集めました。

もの凄い揺れだったため「これは災害派遣確定かな」と思い、装備品がいつでも使えるように準備をさせたのを覚えています。

私自身は、机に戻り情報収集用のテレビにスイッチを入れました。

 

震源地 宮城県沖


絶望しました。

宮城県沖で発生した地震で、関東がこんなに揺れるというコトは・・・現地は更に凄いことになっていることが想像できました。

 

しばらくすると、自衛隊が撮影した映像がテレビで流れはじめ、津波によって逆流する名取川(宮城県内の河川)や、夜になると気仙沼のコンビナート火災が映り、それもまたもの凄い衝撃です。

ついでに言うと、仙台市若林区の荒浜という海水浴場があるのですが、そこで200人程度の遺体が発見された(これはデマでしたが)、私の実家がある多賀城市のイオンも水没した、などの情報も入り、かつ、実家には電話連絡が取れず、「両親はもうダメかな」と諦めました。

 

災害派遣 出動


夜になると、駐屯地の目の前の川越街道はすごい数の歩行者が、ゾンビの群れのようになって歩いていました。

当たり前ですが私は帰れるわけもなく、部隊で災害派遣がかかることを想定して準備を進めていました。

 

20時~21時頃だったでしょうか?

案の定、災害派遣が発令され、私自身は部隊に居残りで、上司の中隊長が指揮官となり茨城県の駐屯地に向け出発しました。

 

このあたり記憶あいまいなのですが、家庭がある人で帰宅手段がある隊員には、一度帰宅を指示した気がします。

 

日付が変わったぐらいで茨城県の駐屯地到着を確認、その後、私は隊舎のどこかで寝ました。

 

3月12日


茨城県の駐屯地に向かった部隊も、装備品を展開して活動を開始しました。

何時頃だったか覚えていないのですが、中隊長と現地の指揮官交代を命令されました。

(「もう少しぐらい現地で指揮取れよ、根性ねぇな」と思ったけど言えるわけがないので素直に従いました)

 

荷物の準備はできていたのですが、その時、実は親知らずの抜歯をしていて・・・糸が歯肉についている状況でした。

なので、駐屯地の医務室で急きょ抜糸してもらい、移動開始しました。

※自衛隊の駐屯地には医官(医師、歯科医)が常駐して、費用負担無しでかかることができます。

 

茨城県の駐屯地に災害派遣


出発して外環に乗ったのはいいものの、あっという間に大渋滞に巻き込まれました。

緊急車両として、側道を走ることを許されているのですが、勉強不足の為それをしらずに、延々と渋滞に巻き込まれながらの移動です。

抜歯した箇所もうずきはじめるし・・・。

予定よりかなり遅れて到着しました。(数時間遅れだったと記憶)

到着して、中隊長から状況と部隊を引き継ぎ、中隊長はそのまま練馬へ移動していきました。

きっと、それもまた渋滞に巻き込まれたでしょう。

 

派遣先では、大きなトラブルもなく1週間ほど勤務しました。

食事も睡眠も十分とれたし、正直、キツさだけなら演習の方がキツい。

本番キツくならないように、演習で厳しく訓練しているので当然ですが。

 

部隊交代


1週間すると練馬の部隊から交代が来てくれました。

一通り状況を説明し、人員だけチェンジして引き継ぎ終了。

私自身の初めての大規模災害派遣でした。

その後、郡山に行きましたが、そちらは事情により伏せておきます。

 

その後


交代したその日、震災後ようやく自宅に戻りました。

あまりモノを持っていなかったので、大して自宅の被害はなく、ベッドに本棚がダイブしていた程度でした。

 

その後2


3/31-4/1の2日間、実家に一度帰ってこいとの指示を受けたため、宮城県多賀城市の実家に帰省しました。

その時は新幹線も飛行機も使えなかったため、夜行バスでの帰省となりました。

4列シートでしたが、現役自衛官の私は快適な旅で、幸せレベルの低下を感じたものです。

 

仙台駅に降りた時、コンビニは盗難防止のためにガラスは新聞紙で目張り、モスバーガーがかろうじて「ライスバーガーならあります!」みたいな張り紙を出していました。

震災から3週間、まだまだまともに機能していない印象を受けました。

 

最後に


東日本大震災に関する災害派遣の功績で、私、第3級賞詞という表彰を受け、防衛功労章という徽章を副賞でいただきました。

今も家宝として大事にしています。

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